ネトゲー依存

よくネトゲー依存とかインターネット依存などという病名が、医学的な基準でも検討されはじめている。そこで、少し古いが、2003年のヤフーチャットの「鬱部屋」のフィールドワークをした人の本を紹介したい。かという、私も以前は、ヤフチャにいて鬱部屋にもいったことがある。大体10人ぐらいで、世間話をしていた。だが時たま、自分が置かれた状況について真剣に語り出す人がいて、そういう人をフォローするかのように、みんな励まし合っていた。『チャット依存症候群』の著者の渋井氏もそのようなセラピー空間を描きたかったのだろう。4人に実際会ってインタビューを試みている。

たとえば、この本に登場する4人の中の1人であるリスカ&ODの理香子さん(17歳)は次のように語っている。

「チャットはみんなとつながっていると感じる。寂しがりやなんだよね。ネットで知り合った人が亡くなったということの現実逃避だったのかも。それに、そのころは気分が落ち込んでいた」(p.26)

理香子さんは、チャットだけで他全くやる気をなくしているらしい以下のようにも語っている。

「どうして日記を更新しないか、って。だって、チャットばかりしているし、日記を核にしても、Yahoo!チャットのことばかりになっちゃう」(p.26)
「いつでもどこでもだれかと話していたい」(p.27)
「もうチャットに依存しています。それはほかにやることがないからだし、現実逃避をしたい、ってことからです。チャットでもがいて、何かを探しているけど、何を求めているかはわからない」(p.27)
「チャットをしないと一日が落ち着かない、一種の安定剤です」(p.30)

などなど、チャットに依存していることを自覚しているような語りを語っている。これは、SLにはあまり見られないコミュニケーションだ。そもそもメンヘルスカテゴリーがSLにはない(あるいは少数なので)、病気のカミングアウトは鬱部屋よりはやりづらいのだろう。

さらに、カテゴリー間のそのような雰囲気の違いによってやはり病気の語りが左右されているということが分かるコメントもあった。
アダルトチルドレン(拒食症、自傷行為)の美智さん(36歳)の事例だ。

「私は『出会い』のカテゴリは利用しませんでした。出会い系のサイトのようなものが好きじゃないので。というのも、出会い系サイトは使ったことがないんですが、過去にテレクラを利用したことがあったんです。そこで嫌な思い出があるんです」(p.118)
「結局、男の人とは会いませんでしたが、時間をテレクラ利用に取られました。電話をしていないといられなくなり、生活がおかしくなっていたんです。それは嫌だなと思って。まるで中毒のような状態でしたが、自制してやめました。会ってなくても『男狂い』のようなきもしたので・・・」(p.118)
「話のなかに入っていけた感じがしました。落ち込んだ時の慰め合いとか、愚痴を聞いていたりしていました。自分が心の傷をもう癒しているという意識だったので、慰めてほしいという気持ちはありませんでしたが、仲間に入れてほしいと思ったんです。ただ、話の内容には共感できても、自分が相手に何かをしようとは思わなかったですね。とりあえず、居場所にしちゃおう、って」(p.119)

美智さんは、過去にテレクラ利用をしていてそのときのトラウマが出会い系を避けたのだろうと思う。実際、出会い系はナンパが多くIM(ヤフーではPMという)がたくさんはいってくる。さらに美智さんは、チャットは病気のカミングアウトや相談が目的ではないと指摘している。この点は、2chやニコ動の弾幕とか「繋がれてないと不安欲求」がすでにこの時代からもあったことを証左してるように思う。


この本の、大きなテーマは依存だけど、これはメタバースの世界にも言えることだと思う。ログインしてないと不安になるなんてことはSLを空気のように思っているオレなんかからすればもはや当たり前の感覚でこの感覚が依存であるとは思わない。だが、この本のあとがきのある社会学者に言わせれば、「辞めようと思えば、いつでも脱却できるのが本当の自由であり、辞められないのは不自由な人間だ」と指摘している。以下、要旨を引用してみる。

選択肢が存在して抑圧もないのに、選択能力や選択原則が欠落するので選べないという「不全感」に悩む者は、能力や原則を欠いた自分自身を責めがちであるのみならず、選択肢の多い環境から、選択肢の少ないーゆえに迷わずにすむ―環境に退却しがちになる。(p.201)


「チャット依存」の機能的本質は、
①責めを自分に負わせる自虐的存在が、
②ノイジーな社会から脱却し、
③自己情報制御の容易な空間に巣篭もりすることで、
④責めの重荷にもかかわらずコミュニケーションに踏みだし、
⑤一定の自己像を維持する(以外に尊厳の方法がない)というところにある(p.203)。
私たちの社会が「チャット依存症候群」に見舞われるのは、必然的なことだ。正確ないいい方をすれば、みながみなでないものの、一定割合の者が「チャット依存」によってかろうじて尊厳を維持するしかなくなるという状況は、まったく必然的にもたらされた。〜中略〜いままでチャット依存を知らなかったり、知っていても偏見を持っていなような、生きづらい人たちには、「チャット依存も『あり』なんだ」と思っていただき、自由になってほしい。しかしまた、すでにチャット依存する人たちには、自分がチャット依存以外の方法で解決する可能性を含めて、もっと多くの現実的な(つまり選べる)選択肢を手にしてほしい(pp.203-204)。


これは、6年も前の話(本)だが、基本的な状況は何も変わってないと思われる。むしろ、3Dのリアリティあるアバターという自己投影し易いメディアを手に入れた我々は常に匿名的な繋がりを求めSLにログインする毎日を過ごす。しかも、ヤフーチャットのメンタルヘルスカテゴリーでされている当事者同士の相談といった目的のある集団がどんどん解体されていき、目的なく繋がるコミュニケーションメディアがいまウケている。このことが我々にもたらすものはいったいなんなのだろう。このことについて、若手社会学濱野智史http://d.hatena.ne.jp/shamano/)が斬新な指摘をしている。


参考:『チャット依存症候群』 渋井哲也 20030715 教育史料出版会 p.205